経産省「次官・若手ペーパー」に対するある一つの「擬似的な批判」をめぐって
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2009年に「官僚たちの夏」がドラマ化されましたが、その際に私が感じたのは、随分と時代感覚がズレているなということです。
例のペーパーを読んで私が受けた印象は、「官僚たちの冬到来宣言」でした。それに対し、本稿で言う「擬似的な批判」の主旨は、「ずっと前から真冬だったのに、何を今さら」といったあたりでしょうか。「今は冬である」という時代認識、「冬の装いに衣替えしよう」という志向性においては、両者は共通しているというのが本稿の指摘であると理解しました。
富のパイが成長していない以上、パイの分配を担う官の役割が限定的になってしまうのは致し方ないことでしょう。だからと言って、官自体が主体的にパイを育てようとするのは本末転倒。
・パイを育てる主役はあくまで自分たちであるという矜持を民間が持ち、お上に対して不当かつ過剰な期待を寄せないこと
・官はパイを育てやすい環境づくりに専念し、レガシー化したシステムをアップデートすること
・その過程で広がる経済格差に対しては再分配で手当てすること
・再分配に際しては、仲介者の恣意性を極力排除し、低コストで実現すること
個人的にはこれが望むあり方です。
レポートを受けて私が受けた違和感は、レポートの中身そのものよりも、周囲の論調がお上に期待するメシア待望論のように響いたことです。「お上にとやかく言われずとも、自分たちで富のパイを育てていく」という気概を持つことこそが商売人のあるべき姿であると、私は思うのですが。
パブリックセクターが担う役割の話に戻ると、夏の時代のように国を新たに作っていくというエキサイトメントは望みにくいかもしれませんが、複雑化し、高度にレガシー化したシステムを作り直すという点では、冬の時代においてもお上には積極的な意味を見出せるのではないでしょうか。
根本的な運営方針の問題提起であって、議論のための議論や衒学的な話題だとは、私は思いません。【ブログ更新】件の経産省ペーパーに関して、とある「あまり批判になっていない批判記事」がかなりシェアされているのを見かけたので、その記事に触れつつ、私たちが選ぶべき「国家観や政治思想上の大きな分岐」が実際どこに走っているか、簡単に整理する記事を書きました。ご一読ください。