アサドが「ゴッドファーザー」から学べること 米国のシリア攻撃、中東紛争に巻き込まれるのは米大統領の宿命
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フィナンシャル・タイムズの、レバノン系のコラムニストRoula Khalafによる論評。先日、私も同様の論評を書いた。
アサド政権が毒ガスを使った?という報を聞いて、中東の人間がどう受け止めるか、ほぼ共通認識といえるものを、言葉にしてくれている。アサド政権側の中の人だって内心はこう思っているだろう。表向きは、政権の反論に唱和するが。
「反政府勢力のほとんどをイドリブに押し込めていたことから、アサド政権は反政府勢力に――そしてその周囲の住民に――対し、シリア国内のどこにいようが孤立した抵抗勢力は容赦しないと思い知らせようとしたのではないだろうか。もう出口はない、助けを求める相手はもういないというのが、そのメッセージだ」
「化学兵器を使ってもなお国際社会は非難しない」と思い知らせる。
それどころか生き残った人たちに「本当は反体制派が使ったんです」とまで言わせる。それが中東の政治。
客観情勢と、その認識は次のようなものだったから、合理的な判断でもある。「一般市民が殺害されても世界は何年も傍観するばかりで、アサド氏の排除を求める声も弱まっていたことから、化学兵器で攻撃することのリスクは抑えられているように見えたに違いない」
通常はこのように解釈する。そうでない根拠が示されれば別の可能性を考慮するが、今回はアサド政権もロシアもまったく確証を出してこないし、辻褄を合わせようとすらしていない。
なお、書き手はレバノン系のキリスト教徒と思われるが、米国育ち。中東諸国で独裁者のいる国にいれば、多くのキリスト教徒はは独裁者の側に着いて、功績を示して、庇護してもらおうとする。多数派のムスリムの民主的な統治の方が、より大きく権利を侵害されると予想するからだ。
これらの認識枠組みや行動原理は、表層的な合理主義では説明できず、リベラリズムや人道主義からは外れるが、現地の社会・人間関係に根ざした合理性に基づいている。外に出た人間の方がそれを批判的に対象化できることがある(常にそうであるということではないが)。
注目のコメント
オバマ前大統領のノーベル平和賞受賞のスピーチにおいて語られる「なぜ私たちは戦争するのか」を思い出し、読み返しました。
人類史上、戦争が絶えたことが無いという事実を踏まえて、どう行動することが明るい未来につながるのか?
>マーチン・ルーサー・キングが何年も前に、この同じ式典で述べた思いを込めたい。「暴力は決して永続的な平和をもたらさない。社会的な問題を何も解決せず、もっと複雑な問題を新たに作り出すだけである」。(中略)
しかし国民を守り保護することを誓った国家のトップとして、彼らの例だけに導かれるわけにはいかない。私は現実の世界に対峙(たいじ)し、米国民に向けられた脅威の前で手をこまねくわけにはいかない。誤解のないようにいえば、世界に悪は存在する。非暴力運動はヒトラーの軍隊を止められなかった。交渉では、アルカイダの指導者たちに武器を放棄させられない。時に武力が必要であるということは、皮肉ではない。人間の欠陥や理性の限界という歴史を認識することだ。
>平和を維持する上で、戦争という手段にも果たす役割があるのだ。ただ、この事実は、いかに正当化されようとも戦争は確実に人間に悲劇をもたらすという、もう一つの事実とともに考えられなければならない。兵士の勇気と犠牲は栄光に満ち、祖国や大義、共に戦う仲間への献身の現れでもある。しかし、戦争自体は決して輝かしいものではない。決してそんなふうに持ち上げてはならない。
両立させるのは不可能に見える二つの事実に折り合いをつけさせることも、私たちの課題なのだ。戦争は時として必要であり、人間としての感情の発露でもある。
日本語訳全文→http://www.kyoto-np.co.jp/obama/nobel.html