「ソシャゲに意地でも課金しない人」と「秒速で課金する人」の違い
コメント
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僕は完全無課金派。価値観は人それぞれなので、どの考えも尊重されるべきだと思うが、個人的には以下のことに価値観が見いだせない。
1. 現実世界の金銭をもって、仮想世界内のアイテムなりに変換すること自体に抵抗がある。それぞれの世界線を守りたい。
2. ゲーム課金とは、いわゆるデータ変更である。データ変更に金銭を投ずる価値を見いだせない。
3. 金銭によって有利にさせるという解決方法自体、果たしてそれをゲームと呼ぶのかという疑問がある。
ただし、ゲーム自体を購入することは、現実世界にあって娯楽というものに対価を払うことだからありだし、ビットコインなどの仮想通貨も、仮想世界のものではなく、現実世界のものという認識なので、根本的に現実世界の金銭を仮想世界のアイテムに変換するゲーム課金とは違うと考える。
注目のコメント
ソーシャルゲームの課金で月100万円使う人がそんなにレアではないと聞いて驚いていたのですが、更に驚いたのは比較的課金の少ない女性ユーザーの中にも、3万円/月ぐらい使う人はたくさんいるとの事。
また課金ユーザーの課金額は、アクティブな無課金ユーザーがたくさんいるコミュニティにおいて、大きくなる傾向があるとの事。これは承認欲求が関係していそうです。
これらの傾向から仮説をたてると、あるゲームのコミュニティの中で上位にいく事は、承認欲求を満たすことになるので、それを満たすために課金をする、という事が言えるかも知れません。(常識だったら、すいません。自分はゲームをしないので、自分としては新鮮なのです・・・いまさらかも知れませんが。)
現実の世界では王になれなくても、架空の世界では「お金さえ払えば」その何百万人のコミュニティでの王になれる。たった100万円で。
王は難しくても、人の上に立てる。たった3万円で。
こう考えると、生産性の無いソーシャルゲームにおいて、社会性の強いヒトという生物が、その本能を満足するためにコストを払う(課金をする)事を正当化できる気がします。
所詮、国家も、政治も、法律も、会社も、お金も、自由も、平等も、全ては人々が共通に信じる神話の上でのみ力を持つ「想像の産物」だと考えると、”ゲームの世界”と”現実の世界”、両方ともヒトの作った神話を元にしているという点で「想像の産物」である事には変わりがありません。
社会性の無い人がソーシャルゲームの課金にハマるわけではなく、むしろ社会性への欲求の強い人が、自分の理想と現実のギャップに苦しんでソーシャルゲームの課金にハマると考えるほうが合理的かも知れません。
(そもそも、それだけ払える人は、現実の社会でもそれなりの財政基盤があるわけですが、その人の持つ理想は更に高く、現実とのギャップを感じている、と言えます。)
ちなみに「承認欲求」は、人が社会を形成する上で必須の能力と言えます。うまく使えば、人助けもできるなど、その欲求自体は決して否定されるべきではありません。
全ての本能には存在する正統な意味はあるけど、人間はそれを拗らせるクリエイティビィティーを持つので、それらをどう発散させるかが、結局は人生の中で重要な意味を持つ気がします。面白い。無課金・課金で無課金=ライトユーザーとは限らないのですね。
私も基本的に無課金で「縛り」の中でがんばるタイプですが、対戦系はほぼやらず、パズルゲームなので問題なし。
ただ、ポケモンGoのタマゴの孵化装置だけは、、手を出してしまいました。。スーパーマリオランを課金ゲームに分類している時点で論外。
あれは実質的には既存のゲームと同じ有料ソフトで、無料ダウンロードにしているのは多くの人に「お試し」してもらうため。
ゲーム内にはキノピオラリーという、他ユーザーと競う要素があるが、ソシャゲと違ってお金をかけたからといって有利にならない。(そもそも課金できない仕組み)