「漢文は社会で役に立たない」と切り捨てる“意識高い系”の勝ち組へ
コメント
選択しているユーザー
注目のコメント
役に立たないから面白いんですよ。
社会で役に立つとか教養のために勉強するということ自体がウンコ。
「役に立つ」ことを強調する人は、役立てることによる面白さしか分からず、それ自体の面白さがわかっていないことを告白しているに等しい。
追記
すっかりうんこ💩がバズってしまったが、うんこ💩が意味しているのは、「毎日の大切なこと」のアナロジーです。おそらく私も筆者の考える「意識高い系のネオリベ外資野郎」にカテゴライズされる唾棄すべき無教養人間なのでしょう。たぶん。
ただ、 本文を以って「ビジネスシーンで役立つ」と主張するには、なんぼなんでも無理があるでしょう。これを読んだら、ますます「こりゃいよいよ必要ないわ」と感じてしまいます。
古典を学ぶことによっていかに人生が豊かになるかを説けば良いものを、「役に立つ」などと矮小化した時点で破綻しています。「無用の用」と言いたかったのかもしれませんが、これじゃ「無用は無用」で片付けられてしまいますよ。新手のほめ殺しか。
自室の机の上に『中国古典名言事典』(講談社学術文庫)を置く程度には古典にも関心がありますし、センター試験も稼ぎどころの楽勝科目なので、漢文自体はむしろ好きでした。出題文を読むのも楽しみでしたしね。中学や高校で漢文を全く教えるなとも申しません。
ですが、21世紀の現代において、センター試験200点満点中50点(古文を入れると100点)の配点は、いくらなんでもバランスが悪すぎます。好事家が趣味で学ぶのを止めはしませんが、一律に学生に押し付けるのは止めていただきたい。人生を左右する試験問題の配点としては、どう考えても不適切でしょう。背後にどんな既得権益があるんだと詮索してしまいます。
一般的な現代人が身につけるべき素養は他にいくらでもあります。時間は有限ではありません。時代に即して教育内容も改めないと。
過ちては即ち改むるに憚ること勿れ。孔子も言っているじゃないですか。その昔、大学がハイソな社交界だった頃には、文学や歴史、漢文やラテン語などの「教養」が重要ということがあったんでしょうが、人の時間は限られていて、今や他にもっと社会に必要な知識が増えてしまったので、バランスを変えるのは当然でしょう。
バブルの頃「社会人になったらゴルフを習え」と言われたのと同じことが、帝国主義あたりの時代では「漢文などの教養」だったし、さらに昔は、漢文(=書き言葉)ができなきゃ高級な職業につけなかったのだから、さらに役に立つ学問でした。
カネ稼ぎに直結するということは、そういう職業が今の世の中により多く必要とされているということ。実質的な職業訓練はある意味では教養より大事です。出来の悪い高校生をもつ母親としては、どっちか選べといわれれば、まずは子供がちゃんと稼いで自立できることのほうが、歴史や文学に詳しいことよりもはるかに重要です。
こうした議論でいつも思うのですが、漢文でも文学でも、それが大切かどうかという話と、日本全国のこんなに多数の人が漢文やる必要あるのか、そんなに時間とコストかけるべきか、という議論は別の話です。学生の限られた時間とキャパを鑑みると、その時間とエネルギーは、IT使いこなし教育や、ちゃんとふつうの日本語の文章書けるように訓練する(これ、仕事でものすごく重要なのに日本の学校に欠けているように見える、その昔の漢文と同じポジション)のに振り向けるべきだと思います。
というわけで、朝倉さんに大賛成です。私も漢文好きでしたよ。