「産まない生き方」論争に感じた違和感 アフロ記者が考える「自立」
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なんか的を得ない記事(ザッと読んで響かない)。斎藤さんの産まない/産めない/恵まれないの区別、いいね。産まない選択をしたシンガポール人の友人、いつも「俺たち夫妻はselfishだから」と言っている。その感覚はあまり日本人にはない
注目のコメント
女性同士の分断(そして火に油をそそぐ男性たち)に、穏やかに物申す記事。
「自分を認めてほしかったら、人を認める」これは何事にも言えます。
承認欲求に縛られるのもいかがかと思いつつも、自分を守るための人の批判はダイバーシティから遠のくばかり。
ロジカル風に批判するor過激に断罪するのがかっこよさげな世の中ですが、一石を投じる何事にも通じる内容。違和感を感じます。
「不満の前に不安があるためのバッシング」ではなく。
「美味しい所どりの他人を許せない」のでもなく。
子供を産むか産まないかを、生き方の選択肢の一つとして論争のテーブルにあげることに、違和感を感じます。
動物としての雌ですから、女性が子供を産むのは自然の摂理です。
女性にしか子供は産めません。
自然の摂理を議論しても結論は出ません。出そうとするのは人間の傲慢です。
それに諸事情で子供を持たない人生になってしまうことは、決して女性として劣った生き方ではないはずです。
そこに何がしかの主張めいたものをくっつけようとすると、無駄な亀裂が起きるだけです。誰にでも産まない自由も産む自由もあるが、それにともなう社会的責任をどうとるかを述べないのは独りよがりの空虚な理想主義ではないでしょうか。子供を産む人は、子供という他人の人生の責任を少なくとも成人するまで背負う人。子供を産まない人は、その責任を負わない分、何らかの社会的責任を負うことを、表明し(かつ実際に行わ)なければならないと思います。そうでなければそれは単なるわがままであり、子供がいる人から見れば、あなたの老後を・・・みたいな発言が出てしまうのだと思います。産まない生き方と、産む生き方はどちらも大事でどちらも尊重したいと思うからこそ、その選択の責任は、どちらも差が無く負うという意思(の表明)が大事なのではないでしょうか。
そういう意味で、小生は、この記事の生き方は賛成できません。仙人のように暮らすことではなく、より多くの富(経済的にだけでなく精神的にという意味でも)を産みだすことに自分の生涯をかけて欲しいと思うのです。